銃捨てられぬ米国の深い淵 編集委員・福島申二

静かに置かれたラグビーボールはいささか色があせている。24年の歳月が、あの事件から経とうとしている。

 1992年の秋、名古屋市の服部剛丈(よしひろ)君(当時16)が留学先のアメリカで、銃で撃たれて死亡した。無言の帰国に涙しつつ、高校ラグビー部の仲間たちが寄せ書きをした楕円(だえん)のボールを、せログイン前の続きんだって実家の居間で拝見した。

 米国で先月、49人が亡くなる史上最悪の乱射事件が起きた。話をお聞きしたくて訪ねると、父の政一(まさいち)さん(69)は悲しげに声を曇らせた。「いつまでも同じ悲劇が繰り返される。あれからよくなるどころか、むしろ逆行している」と。

 ハロウィーンのパーティーで訪ねる家を間違え、玄関先で射殺された服部君の惨事は米国でも大きく報じられた。悲嘆を越えたご両親の熱心な署名活動もあって、事件の起きたバトンルージュルイジアナ州)の名は一時、銃社会を変えようとする運動のシンボルにもなった。

 しかし事件から10年後、その町は別の事件で米国を騒がせる。

 女性ばかり狙った連続殺人が起き、身を守るために銃を持ち歩くよう知事が呼びかける事態になった。そのころ特派員だった筆者が取材に向かうと、ある銃器店ではポーチに入るぐらいの小型銃が短期間に約300丁も売れていた。購入者の9割は女性だと聞かされた。店主は言った。「社会に恐怖があるときは、弱い人ほど銃を買うものだ」

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 店主は続けた。「銃を持てば女性も屈強な男と対等になる」「弾丸に性別はないからね」「銃を持つことは憲法が認めた尊い人権なのだ」。銃が米国では「平等をもたらすもの(イコライザー)」と呼ばれることを、このとき知った。

 身辺に不安があれば、銃とは無縁だった人まで銃で身構える。いまや3億丁という銃が寝室の引き出しにまで潜む米国は、いわば万人が万人に対して銃を持ち合う「武装社会」だ。そして他人の持つ銃への疑心と恐怖は、人々をさらなる銃信奉へと駆りたてる。国家間の軍拡競争に通じる個人の心理だろう。

 あす4日、アメリカは独立記念日を祝う。建国以来の合衆国憲法には「修正第2条」という条項があって、銃擁護派はこれを、個人の武器所有の権利を認めた「錦の御旗(みはた)」として掲げる。大づかみに言えば、独立戦争の勝利は銃をとった人民(民兵)によってもたらされたという建国史に根ざした条項である。

 その修正第2条を「自由を愛する者の永遠のボディーガード」と称揚し、「これがある限り、悪が我々を征服することはできない」と高らかにスピーチしたのは往年の名優、故チャールトン・ヘストンだった。私が在米したころ、強面(こわもて)で知られ政界に強い力を及ぼす全米ライフル協会の会長をつとめていた。

 片や銃規制を求める側からは「ヘストンこそ地獄へ行け」といった罵声(ばせい)が飛んだものだ。武装してこそ自立した市民だという思想と、世界に類を見ないすさんだ銃社会の現実。さらに政治的な思惑も絡みあって、銃をめぐる問題は近年のアメリカの民意を二つに分断してきた。

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 3年前、オノ・ヨーコさんがネットで「銃なき社会」を訴え共感を呼んだ。夫のジョン・レノンが凶弾に倒れた1980年以来33年間に、米国内で105万7千人以上が銃で殺されたと、血のついた夫のメガネの写真とともに発信した。かくも多くが銃弾で息絶えた日常に、戦慄(せんりつ)を覚える。服部君もその1人だ。

 「銃問題は不治の病のようなものでしょうか」。問う私に、父親の政一さんは考えながら言った。「『核なき世界』と同じかもしれません。私たちの生きている間には無理でも、銃におびえなくていい社会に、きっといつかは」

 政一さんは今も毎朝、起きると一番に仏壇に線香を立てる。観音開きの小さな骨箱には剛丈君の「喉仏(のどぼとけ)の骨」がおさめてある。見せてもらった。真っ白だ。ものが言えるなら、彼はその喉から、どんな言葉を発したいだろう。

 銃を捨てられず、銃が銃を呼ぶ。彼が好きだったアメリカの深い淵(ふち)に向けて。